大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

長崎地方裁判所 昭和46年(行ウ)3号 判決

原告 宮地寿彦

被告 諫早市

主文

1  被告は、原告に対し、金四〇万一、八三四円及びこれに対する昭和四六年一〇月二三日より支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用はこれを三分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告

1  被告は、原告に対し、金九〇万一、八三四円及びこれに対する昭和四六年一〇月二三日より支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告は、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞及び長崎新聞の各朝刊広告欄に別紙記載の謝罪文を同記載の条件で各一回掲載せよ。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

二  被告

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和三九年一〇月、被告(以下、諫早市ということがある。)の教育委員に任命され、同四〇年一〇月、委員の互選により教育委員長に就任し、爾来、約五年余にわたつてその地位にあつたが、同四六年二月四日、教育委員の任命権者である被告代表者市長野田次三(以下、単に諫早市長または市長という。)から、原告がこれより先に申出でた辞職に同意する旨の免職処分を受けた。

2  ところで、諫早市長は、被告の事務及び法律またはこれに基づく政令によりその権限に属する国、他の地方公共団体その他公共団体の事務を管理し、これを執行する地位にあり、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下、単に地方教育行政組織法という。)第一〇条による教育委員の辞職申出でに同意をし、これを免職する処分を行う権限を具有している。

しかして、原告に対する免職処分は、原告が昭和四五年一二月一七日市長に辞表を提出してなした辞職申出に対して同意をするという形で行われ、従つて、地方公共団体(諫早市)の公権力の行使に当る市長がその職務行為として行つたものにほかならない。

しかるに、該免職処分は、次に主張するごとき理由によつて違法たるを免れず、かつ、かように違法な免職処分が行われるに至つたのは、諫早市長の後記のごとき故意または過失に基づくものであるところ、原告は、右免職処分の結果後記のような損害を蒙つた。

3  原告に対する免職処分は、違法かつ無効のものである。

(一) 原告がなした辞職申出は、原告の自発的な意思に基づくものではなく、訴外前田正則の強迫によるものである。

すなわち、原告は、昭和四五年一二月一四日、諫早市教育正常化協議会理事、諫早中学校P・T・A会長、自由民主党所属諫早市会議員である右前田の要請によつて、諫早市内道具屋旅館において同訴外人と面談したが、その際、同訴外人は、同市で同年一一月一三日に行われた長崎県教職員組合関係の統一行動に原告の長男である訴外宮地昭が参加したことをとらえ、かつ、右昭が同統一行動に先立つて開かれた同訴外人所属の諫早中学校職員会議の席上で暴言を吐いたとして、原告に対し、「あなたが諫早市の教育委員として在職することは適当でない。多くの市会議員は、教職員組合の一一・一三統一行動に関連して、あなたに疑いの目を持つている。とくに宮地昭教諭の『暴言問題』以後は多くの議員が激昴している。あなたが辞めないなら、一二月の市会議であなたを呼出し、質問を浴びせてぬきさしならないよう窮地に陥れる。情勢は緊迫している。あなたも自分の名誉を考えるなら辞表を出すべきだ。」なる趣旨のことを荒々しく言つて迫り、原告が任期終了前退職することに逡巡の色を示すや、さらに、机の上に体を乗り出すようにして、「情勢はそんな生やさしいものではない。逼迫している。最後の時期に来ているのだ。」という趣旨のことを大声で怒鳴りつけて、原告の辞職を強く求めた。これに対し、原告は、かような外部の圧力によつて教育委員長の職を辞するいわれはないと考えたが、他面、もし辞職しなければ市議会においてしつような質問責めに逢い、苦しみを受けることは必至と思われ、単に煩わしいというばかりでなく、その精神的苦痛は言い知れぬものがあつた。そのため、原告は、翌一五日に開かれた教育委員会の席上辞意を表明し、かつ、即日市長に対して口頭にて辞職したい旨申出でたほか、市長の求めに応じて、同月一七日、市長に辞職願を提出した。

従つて、原告が辞意を表明したのは、原告の任意の意思によるものではなく、前田の右のごとき強迫行為に基因するものであるから、その辞職の申出自体が無効である。仮りに、これが無効といえないとしても、原告は、後記主張のように、諫早市長及び同市教育委員会(以下、単に教育委員会という。)に対して右提出した辞職願を撤回する旨の意思表示をなしたが、右辞職の申出(瑕疵ある意思表示)は右撤回の意思表示によつて取消されたものというべきである。

そうすると、かように無効または既に取消された辞職申出に対してなされた市長の同意(免職処分)は、その効果を生ずるに由ないものであり、違法たるを免れない。

(二) 仮りに、原告の辞職の申出が前田の強迫行為に基因する瑕疵ある意思表示にあたらないとしても、原告は、昭和四五年一二月二〇日及び同月二三日に市長に対して、次いで、同月二五日に教育委員会に対して、それぞれ右辞職の申出を撤回した。すなわち、原告は、右辞職願を提出したのち、種々冷静に考慮を廻らした結果、いかに煩わしさを避けるためとはいえ、教育委員長の地位にある者が外部の圧力に屈して辞任するということは、教育基本法第一〇条の精神に反することであり、我国の教育行政を誤つた方向に導くことにもなりかねない、と思い返えし、まず、同月二〇日、市長の自宅に赴いて、市長に対して辞職願の撤回を申入れ、該辞職願の返還を求めたほか、同月二三日には再度市長宅に赴き、同月三一日には電話で、さらに、昭和四六年一月一七日には市長に呼出されて前記道具屋で面談した際、それぞれ重ねて市長に対し辞職願の撤回を申入れて、その返還を求めたが、市長は、右いずれの場合も言をにごして応接し、辞職願返還の要望に応じようとしなかつた。他方、原告は、昭和四五年一二月二五日に臨時教育委員会を招集し、その席上、辞職願を撤回する旨の意思表示をした。これに対し、教育委員会は、若干の曲折を経てではあるが、即日、原告の右辞職願の撤回を了承した。

ところで、元来、辞職願の提出は、それ自体で独立に法的意義を有する行為ではないから、当該辞職願に基づいて免職辞令が交付される以前においては、信義に反すると認められるような特段の事情が存しないかぎり、これを撤回することも自由である、と解すべきである(最判昭和三四年六月二六日民集一三巻六号八四八頁)。

しかるに、諫早市長は、かようにして原告が辞職願を撤回したあとである昭和四六年二月四日に至つて、初めて地方教育行政組織法第一〇条に定める「同意」の意思表示を明らかにするとともに、原告に対して免職辞令を交付し、爾後、行政上原告が辞職したものとして処理してきた。しかしながら、右同意ないし免職処分は、原告が辞職の申出を撤回したのちになされたものであるから、それによつて原告に辞職の効果が生ずべきいわれはなく、それ自体違法、不当なものたるを免れない。

4(一)  ところで、諫早市長は、原告が辞職願撤回を再三にわたり申入れたことにより、原告に対して免職処分(辞職申出に対する同意)を行うに際し、原告においてすでに辞職申出を撤回していることを知悉していたわけであるから、故意によつて右違法な免職処分をなしたものというべきである。

(二)  仮りに、諫早市長が、原告の提出した辞職願を受理したことにより、地方教育行政組織法第一〇条に定める同意の効果が生じたと誤認していたとしても、原告に対して免職処分をなしたことは、重大な過失に基因するものといわなければならない。けだし、教育委員会は、昭和四六年二月四日に至るまで、原告に対して教育委員長としての処遇を与え、他方、原告も、該処遇に応じ教育委員長としての職務を行つてきたが(その詳細は、後記「被告の主張に対する反論」で主張するとおり。)、諫早市長としては、少しその間の消息を調査すれば、当然、教育委員会が原告の辞職申出に対して同意をしていないか、もしくは、辞職願の撤回を認めたかのいずれかであることに容易に気付き得たはずである。そればかりでなく、元来、市長は、教育委員の在免権者として、地方教育行政組織法の規定全般を正確に理解しておくべき義務を負つているのであるから、準法律行為的行政行為である辞職願の「受理」行為と、意思表示を要素とし、法律上の効果を発生させる行政権の行為としての「同意」との相違を誤まるが如きは、まさに重大な過失があつたものと解さざるを得ないからである。

5  原告は、諫早市長のなした違法な免職処分の結果、次のような損害を蒙つた。

(一) 原告は、教育委員長として昭和四六年九月末日までの残任期間が存したところ、原告の違法な免職処分により、右残任期間中の報酬を受けることができず、これと同額の得べかりし利益を失つた。すなわち、原告は、昭和四六年一月当時、教育委員長として月額金一万三、〇〇〇円の割合による報酬を受けていたが、右免職処分により、同年二月分として金二、一六六円の支給を受けたのみで、同月分の残額金一万〇、八三四円及び同年三月以降九月末日までの間の報酬全額金九万一、〇〇〇円の支給を受けることができず、右合計金一〇万一、八三四円の損害を蒙つた。

(二) 原告は、市長の故意または重大な過失に基づく違法な免職処分により、その意に反して教育委員長としての地位を失つたが、すでに残任期間が経過している関係上、もはやその地位を回復することは不可能である。しかも、かような違法な免職処分を受けたこと自体、原告の名誉を著るしく損うものである。原告の蒙つた精神的損害は、到底金銭をもつて償いうる性質のものではないが、他にこれに代る補償の手段がないので、これを金銭をもつて評価するときは、その額は金三〇万円を下らない。さらに、右損害賠償とともに、原告の右損われた名誉を回復するためには、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞及び長崎新聞の各朝刊広告欄に別紙のとおりの謝罪文を各一回掲載する必要がある。

(三) 被告は、諫早市長のなした免職処分が違法かつ無効のものであることを認めようとしないので、原告は、その蒙つた前記損害を償うため、やむを得ず本件訴訟を提起せざるを得なかつた。そして、原告は、本件訴訟の提起及びその追行を本件訴訟代理人両名に依頼したが、その際、右両名に対し、着手金として各金五万円を支払い、かつ、本件訴訟終了後に各金二〇万円を支払うことを約した。従つて、右合計金五〇万円の支出は、被告代表者(諫早市長)の違法行為によつて原告の蒙つた損害というべきである。

6  叙上の次第であるから、公共団体たる被告は、原告に対し、公権力の行使に当る市長がその職務を行うについて違法に加えた損害合計金九〇万一、八三四円を賠償し、かつ、原告の名誉を回復するために必要な前叙処分を行うべき義務がある。

そこで、原告は、被告に対し、右金九〇万一、八三四円及びこれに対する本件訴えの変更申立書送達の日の翌日である昭和四六年一〇月二三日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払、並びに前叙主張したとおりの謝罪広告の掲載を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因第1項の事実は、すべて認める。ただし、諫早市長が原告の辞職申出に対してなした同意が免職処分に当る旨の主張は、争う。

2  同第2項の事実のうち、諫早市長のなした、地方教育行政組織法第一〇条の同意が、違法のものであること、該同意をするにつき、諫早市長に故意または過失があつたこと、及び原告が諫早市長の右同意によつて損害を蒙つたことは、いずれも否認するが、その余の事実は、すべて認める。なお、教育委員会は、地方公共団体の長から独立した教育行政機関であつて、その構成員である教育委員の任命の方法や罷免、辞職の方法などについても、その独立性及び中立性から特別の法制が設けられている。従つて、教育委員は、教育長たる教育委員を除き、地方公共団体の長から指揮、監督を受ける立場にない。すなわち、これを要するに、地方教育行政組織法第一〇条は、教育委員は公の職務遂行に支障をきたさないかぎり自由に辞職できることを予定しているものというべきであり、そうであるならば、同条に定める地方公共団体の長の同意は、その性質上行政処分と解すべきではなく、公法上の契約の合意解除と目すべきものである。そして、このことは、同法第八条及び第九条については明文上行政不服審査法に基づく不服申立が認められているのに、右同意についてはこれと同種の規定を欠くことからも明らかである。

3(一)  同第3項(一)の事実のうち、原告と前田が、昭和四五年一二月一四日に、諫早市内道具屋旅館で面談したこと、前田が、原告主張のとおり肩書ないし地位を有していたこと、原告と前田の右面談の席上、右両者間では、同市で同年一一月一三日行われた長崎県教職員組合関係の統一行動に原告の長男昭が参加したこと、同訴外人が原告主張の職員会談で暴言を吐いたこと及びその当時諫早市議会で原告に対してこれらに関連した質問がなされる予定となつていることなどが、種々話題に供されたこと、原告が、同年一二月一五日、教育委員会に対して辞意を表明するとともに、同日、市長に対しても、口頭で辞職を申出で、次いで、同月一七日、市長に辞職願を提出したこと、原告が、諫早市長に対して、その提出した辞職願を撤回する旨の意思表示をしたこと、以上の事実は認めるが、その余の事実は否認する。なお、前田は、諫早市議会教育民生常任委員会委員及び諫早市P・T・A連合会々長等の職にあつた関係上、教育委員長として五年余も同市の教育行政に関与してきた原告とはかねて昵懇の間柄であつたので、原告の長男昭の暴言問題に関して原告と個人的に意見を交換し、かつ、同問題を廻って審議が予定されている諫早市議会の院内情勢等について助言しようという配慮から、原告と道具屋旅館で面談したに過ぎなく、元来、同旅館を面談の場所に選んだのも原告の案内によるものであるうえ、該面談後は原告及び前田の両名で酒食を共にしたが、それらの費用は全部原告が支払つており、該面談は、終始、原告及び前田のみで余人を交えることなく、かつ、和やかな雰囲気のもとに行われた。従つて、前田が、右面談の際、原告に対し、荒々しい言葉で辞職を迫つたようなことは、もちろん存在しない。また、原告は、教育委員会の委員長として、いわゆる教育行政の執行機関たる地位にあつたのであるから、市議会において議員からの質問を受けるのはむしろ当然の職責に属する。従つて、市議会で質問されるであろうことを示唆ないし告知され、これに畏怖して辞職願を提出するに至つたということ自体、にわかに首肯しがたいところといわねばならない。

(二)  同項(二)の事実のうち、原告は、昭和四五年一二月二三日、同月三一日及び昭和四六年一月一七日に、それぞれ原告主張の場所及び方法で、市長に対し、辞職願の撤回を申入れて、その返還を求めたが、市長は、いずれの場合も、右返還に応じなかつたこと、市長が、昭和四六年二月四日、書面をもつて、原告の辞職に同意する旨の意思表示を明らかにしたこと、以上の事実はいずれも認める。原告が辞職願を撤回するに至つた動機については不知。その余の事実は否認する。なお、地方教育行政組織法第一〇条に定める同意の法律的性質は、行政処分と解すべきでなく、公法上の契約の合意解除と目すべきであるから、右同意の有無にかかわらず、元来辞職願の撤回は許されないものというべきである。

4  同第4項の事実は、全て否認する。

5  同第5項の事実のうち、原告の教育委員としての報酬が月額金一万三、〇〇〇円であり、その任期が昭和四六年九月末日までとなつていたことは認めるが、その余の事実は否認する。

三  被告の主張

1  仮りに、原告のなした辞職申出について撤回が許されるものと仮定しても、諫早市教育委員会及び市長は、これが撤回前に、地方教育行政組織法第一〇条の同意を与えているので、これにより、右辞職申出は有効に効果が生じ、原告はその教育委員長としての職を失つたものというべきである。しかして、右同意は、元来無方式のものであるから、特に書面をもつてなされることが必要とされているわけではない。しかるに、諫早市長が、昭和四六年二月四日付の書面をもつて、原告の辞職申出に同意する旨の意思表示を明らかにしたのは、原告が右辞職の効果発生後も依然教育委員長であるかのように振舞う結果、教育委員会ひいては諫早市教育界に混乱が生じていたため、原告の辞職申出に対する市長の同意と、それによる原告の失職の効果を確認する趣旨でなされたものにすぎない。従つて、被告は、原告に対し、損害を賠償すべき何らの義務も負担していない。すなわち、

(一) 原告は、昭和四五年一二月一五日開催の教育委員会の席上で、教育委員会に対して辞職の申出をなしたが、教育委員会は、即日、原告を除く教育委員全員で審議した結果、右辞職に同意した。

(二) 次いで、原告は、同月一七日、市長宅を訪問して、諫早市長に対し、教育委員長の辞職願を提出した。その際、市長は、原告の辞意が固いことを確かめたうえ、「辞任を承諾しましよう。」といつて、辞職に同意した。この点に関し、原告は、市長は単に辞職願を受理した(預つた。)にすぎない旨反論するが、市長は、教育委員会が既に原告の辞職申出に同意していることから、教育行政については、市長と独立、対等の関係にある教育委員会の意向を無視することは相当でない、という判断に立脚して、原告の辞職申出に対処しようとしたのであるから、原告が辞職願を持参した際、市長のみが同意するかどうかの態度を保留して、単にこれを受理する(預かる。)にとどめるというがごとき挙に出る筈はない。

(三) さらに、市長は、翌一八日、秘書課長を原告の許に派遣して、空白のままになつていた辞職願の作成日欄に、一二月一七日と記入させた。これは、原告が辞職願の作成日欄を白地のままにしておいたのは、市長が辞職申出に同意する日を随意書き入れて貰いたいという趣旨に解されるところから、原告が辞職申出をし、かつ、市長においてこれに同意した右日付を記入させたものにほかならず、それによつて、原告自身としても、市長が右辞職申出に同意したことを察知し得た筈である。

(四) ところで、市長は、同月一八日、原告に辞職願の日付を補完させた後、金森教育長と協議の上、教育委員全員に右辞職願を供覧し、市長が原告の辞任を了承(同意)し、辞職願を受理した旨を通知するための手続を取つた。さらに、市長は、教育委員の辞職は市議会の同意を必要としないが、その任命については市議会の同意を必要とする重要な人事であるので、市議会議長に対し、原告より辞職申出があつたこと及び市長としてもこれを承認せざるを得なかつたことを伝達した。これに対し、議長から後任人事をどうするかとの質問がなされたが、市長としては、既に教育委員会事務当局及び教育長と協議の結果、原告の残任期間は、昭和四六年九月末日までであるか、一人の欠員では教育委員会の運営に当分支障をきたすおそれがないとの結論であつたので、当分の間後任教育委員の人事案件は提出しない旨を議長に報告し、議長もこれを了承した。しかして、かような諫早市及び同市議会等でとられた内部手続の経緯からみても、市長が原告の辞職に同意したことは明らかである。

2  仮りに、原告が辞職申出を撤回する以前においては、市長及び教育委員会から地方教育行政組織法第一〇条に定める同意がなされなかつたとしても、原告が辞職申出を撤回することは、次に主張するごとき理由により信義則に反するので、許されない。すなわち、

(一) 原告は、昭和四五年一二月二三日に至つて始めて辞職撤回を申出でたのであつて、同日以前に右撤回を申出でたことは存しないところ、諫早市長は、すでに主張したように、原告から辞職願を受理した翌日に当る一二月一八日、原告を除くその余の教育委員に対し、原告より辞職願を受理したことを周知させる手続をとるとともに、市議会議長に対し、原告の残任期は昭和四六年九月末日までの短期間であるうえ、差当り欠員を補充しないでも支障がないので、教育委員の後任人事については、折柄開会中の市議会に提出する予定はない旨の報告を了していること、そればかりでなく、右開会中の市議会においては、教育行政、ことに宮地昭の前叙暴言問題等に関して、原告に対し、一般質問がなされることになつていたが、原告の辞職申出が市議会議長を通じて市議会議員全員に知らされたため、右に予定されていた一般質問はいずれも取り下げられるに至つた。しかるに、原告が辞職申出をなしたのは、長男である宮地昭が従前より教職員組合のストに参加するなど、とかく教育委員会の方針ないし指示に背く行動をとることに苦慮していたうえ、前叙暴言問題まで発生し、教育委員長としての公的立場と子を思う親の心の板ばさみとなり、道義的責任を強く感じざるを得ない苦境に追い込まれたことによるものである。そして、このような原告の辞職申出が撤回されるに至つたのは、ひつきよう。宮地昭ら外部からの圧力によつてなされた恣意的なものにほかならない。従つて、かように原告の辞職申出に基づいて諫早市及び教育委員会等の内部的な手続が進行した段階で、原告の恣意に基づく辞職の撤回を認めることは、行政秩序の混乱を惹起し、信義則に反するものであるから、到底許されないというべきである。

(二) なお、原告は、市長及び教育委員会が昭和四六年二月四日に至るまで原告を教育委員長として取扱つていた旨主張するが、そのような事実は存在しない。これを反ばくすると、次のごとくである。

(い) 諫早市においては、従来より、教育委員会開催の場合は、同委員会事務当局において委員会の日時を定め、教育長が招集手続をとつていた。そこで、原告主張の各教育委員会の開催に当つても、事務当局が、漫然招集者として原告名が記載された従来の招集用紙を用いて、右開催の通知手続を行つたものにすぎず、原告が特に招集手続を行つたというわけではない。

(ろ) また、右一二月二五日開催の定例委員会の席上では、原告を除くその余の教育委員は、辞任した筈の原告が出席してきたことに不審の念を抱きながらも、当日の予定議題が単なる教育長の報告だけであつたため、ことさら原告の退席を求めるなどして、事を荒立てることなく会議を終了した。しかし、昭和四六年一月三〇日の定例教育委員会では、再び原告が教育委員長として出席してくることが予想されたため、原告を除くその余の教育委員は、すでに辞任した原告が出席するのであれば出席できない、という理由で欠席したので、結局、流会となつた。従つて、同日の定例教育委員会においては、原告が教育委員長として会議の運営に当つたようなことはない。

(は) さらに、原告に対して原告主張の各会合の出席要請ないし案内がなされたのは、諫早市及び教育委員会の事務取扱者が従来の出席名簿等に基づいて事務的、機械的に処理して案内状等を送付していたことによるものであつて、このことは、原告主張の第八回諫早市婦人大会開催に関する案内状が、原告が免職の手続がとられたと主張する同年二月四日より後の同月二二日に至つて発送されていることからしても、明らかである。

また、原告主張の成人式に際して原告の在席を許容したのも、帰するところ、祝賀の式典であることを考慮して、ことさらの混乱を避けるための便宜的な手段にすぎなかつた。

(に) 諫早市長が原告の辞職申出に対して同意を与えた後においても、原告に対して教育委員としての報酬が支払われているけれども、これは、教育委員会の事務当局が教育委員としての身分を一般公務員の場合と同様に考え、市長の前記書面による同意(いわば確認のためのものであること、先に主張したとおり。)を免職辞令と誤解して、これに基づいて事務処理をしてきた誤りに由来するものである。

叙上一連の経過からすれば、辞職申出後の原告に対する処遇については、諫早市及び教育委員会ともに事務処理上若干手違いのあつたことが否定できないが、元来、教育委員の辞職は教育委員会及び市長の同意のみによつてその効果を生ずるのであるから、かような事務処理上の手違いがあつたからといつて、右同意ないし失職の効果に格別の影響を及ぼすものでないことはもちろん、辞職申出に基づいて新たに形成された行政秩序の尊重を不要に帰せしめるわけのものではなく、原告のなした辞職申出の撤回が信義則上許されないものであることには、何ら変わりがない。

四  被告の主張に対する原告の反論

1  被告の主張1の事実のうち、諫早市長が、被告主張の書面で、原告に対し、原告の辞職申出に同意する趣旨の意思表示をしたこと、原告が、被告主張の日に、被告主張の場所で、諫早市長に対し、辞職願を提出したこと、並びに、諫早市長が、被告主張の日に、秘書課長を原告の許に派遣して、被告主張の辞職願の作成日欄の補完を求め、原告が、同欄に原告主張の日付の記入をしたことは、いずれも認めるが、その余の事実は、すべて否認する。原告が辞職申出を撤回する以前において、該辞職申出に対し、市長及び教育委員会から同意がなされたことは存しない。これを詳論すれば、次のとおりである。

(一) 原告は、昭和四五年一二月一五日の教育委員会において、前叙主張したごとき前田正則との会見の模様を報告し、教育委員を辞職したい旨申出でた。右辞職申出に対しては、教育委員である訴外山崎善陽から、「委員長が自発的に辞めたいというのであれば、それでよいだろう。自分としては辞めろとか、辞めるなとか言う権限はない。」旨の発言があつたものの、その他の教育委員からは格別の発言もないままで、同日の教育委員会を終了した。従つて、右経過をもつて、地方教育行政組織法第一〇条に定める教育委員会の同意があつたとみることはできない。

(二) また、原告は、右同日、市長室に赴き、市長に対し、「教育委員会で辞職したい旨申出でた。」旨を報告し、辞職したい意向であることを明らかにしたところ、市長は、作成日付を記入せずに辞職願を提出しておいた方がよいであろうと助言したのみであり、右辞意に対する同意の意思表示はしなかつた。そして、原告は、翌一七日午前七時ごろ、市長宅を訪れて、市長あての辞職願を提出したが、その際も特に言葉を交しておらず、右辞職に対する同意の意思表示はなかつた。

この点につき、被告は、原告が右辞職願を提出した際、諫早市長は「辞職を承諾しましょう。」といつてこれに同意した、右同意をするについては、特に書面をもつてなされることが必要なわけではない、旨を主張するが、本件においては、叙上主張したような経過が存するのみであつて、通常官公庁で行われている、いわゆる受理行為すら行われた形跡は存しない。仮りに、右受理行為はあつたとしても、辞職願を受理することが直ちに辞職に対する同意を意味するわけではない。けだし、右受理行為は、準法律行為的行政行為であるから、行政庁の効果意思の表示を要素としないのに対し、地方教育行政組織法第一〇条に定める同意は、「免職」という法律上の効果を発生させる行政処分であり、市長としては、辞職願を受理しても、これに同意を与えないということもできる筋合のものであるからである。従つて、市長が辞職に同意するには、一且辞職願を受理したうえ、さらに、同意の意思表示がなさるべき性質のものであるところ、それは、書面によるを要するか否かは別として、少なくとも客観的に明らかな方法によることを必要とし、一般的には、行政処分の明確化をはかる必要性から、辞令書の交付によつてなされていることは、公知の事実である。

2  被告主張2の(一)の事実は、すべて否認する。原告のなした辞職申出の撤回は、信義則に反するものではない。これを詳論すると、次のとおりである。

(一) 原告が最初に辞職願を撤回したのは、昭和四五年一二月二〇日であつて、辞職願を提出した日の僅か三日後である。しかも、右辞職願の提出に対し、市長は、直ちに免職(同意)の辞令を交付することなく、暫くこれを預つておいて、時機をみて善処しようとの考えを示していたものであるから、被告の主張するごとき行政的な内部手続がとられたことは、まつたくない。そればかりでなく、原告は、次項で主張するように、その辞職撤回後一ケ月余にわたつて教育委員長としての職務を続け、諫早市及び教育委員会においても、原告を教育委員長として遇していたのであるから、原告の辞職申出によつてすでに何らかの行政秩序が形成されたということは到底できない。

(二) 原告は、その辞職願の撤回以降、諫早市及び教育委員会より教育委員長としての取扱いを受け、みずからもその職務を行つてきた。すなわち、

(い) 昭和四五年一二月二五日の臨時教育委員会及び同月三〇日の定例教育委員会は、いずれも、原告の招集手続に基づき開かれ、かつ、原告において教育委員長として会議の運営に当つた。

(ろ) 原告は、昭和四六年一月一五日、諫早市体育館で行われた被告主催の「成人式」に教育委員長として出席を求められ、同式に出席して、市長席隣の教育委員長席で最後まで参加していた。

(は) 原告は、前記道具屋旅館で同月一七日に行われた諫早市長、諫早市議会議長及び同市商工会議所共催の「石橋政嗣氏の社会党書記長就任祝レセプシヨン」並びに諫早市商工会議所四階大ホールで同月二九日に行われた同市教育委員会主催の家庭教育学級大会に際し、それぞれ、教育委員長として出席を求められた。

(に) 教育委員会は、同年二月二二日付文書で、原告に対し、同年三月八日諫早市公民館大講堂で行われる右委員会主催の第八回諫早市婦人大会の案内状を送付した。

(ほ) 原告は、諫早市より、同年一月分及び同年二月一日より同月四日までの教育委員長としての報酬の支払を受けた。

このような一連の事実経過からみても、原告の辞職申出によつてすでに内部的な一定の手続が進行し、行政秩序を害することなしにはこれが撤回できない状態にあつたということのできないことが、明らかである。

第三証拠〈省略〉

理由

一  原告は、昭和三九年一〇月、諫早市の教育委員に任命され、昭和四〇年一〇月、委員の互選によつて教育委員長に就任し、爾来、約五年余にわたつてその地位にあつたものであるところ、昭和四五年一二月一五日、教育委員会に対して辞意を表明するとともに、同日、市長に対しても、口頭で辞職を申出で、次いで、同月一七日、市長に辞職願を提出したこと、並びに、諫早市長が、昭和四六年二月四日、書面をもつて、原告の右辞職申出に同意する旨の意思表示をしたことは、いずれも、当事者間に争いがない。

二  ところで、原告は、右辞職の申出ないし辞職願の提出が訴外前田正則の強迫に基づいてなされたものである旨主張しているので、まず、この点について検討する。

原告と前田が、昭和四五年一二月一四日に、諫早市内道具屋旅館で面談したこと、前田が、原告主張のとおりの肩書ないし地位を有していたこと、原告と前田の右面談の席上、右両者間においては、同市で同年一一月一三日行われた長崎県教職員組合関係の統一行動に原告の長男昭が参加したこと、同訴外人が原告主張の職員会議で暴言を吐いたこと及びその当時諫早市議会で原告に対してこれらに関連した質問がなされる予定となつていたことなどが、種々話題に供されたこと、以上の事実は当事者間に争いがなく、これらの事実に加えて、成立に争いのない甲第四二号証、乙第四、第五号証及び証人前田正則の証言により真正に成立したものと認められる乙第三号証並びに証人宮地昭及び同前田正則の各証言を総合すると、次の事実を認めることができる。

原告は、昭和四五年一二月一四日朝、その妻を介しての電話連絡によつて、教育委員(長)と市議会の教育民生委員という関係でかねてから顔見知りの前田正則から、面談のため原告宅を訪問したい意向であることを伝えられ、同日夕刻、諫早市議会の控室に同訴外人を訪ね、自宅よりもむしろ話し易いということで、同訴外人を前記道具屋旅館に案内し、同旅館で余人をまじえず面談した。ところで、これより先、教育委員会が昭和四五年一〇月頃例年どおり永年勤続者を教育功労者として表彰する式典を催した際、各小、中学校では、それぞれその所属の教職員に右式典への参加を促したが、原告の長男である諫早中学校教諭の訴外宮地昭が、同中学校の職員会議で同校々長より右式典への参加を慫慂されたのに対し、右功労者に対する暴言を吐いたことや、同訴外人が長崎県教職員組合のストに参加したことなどを廻つて、その頃、教育委員会(ないし、その事務局)では、同訴外人に対する処分の是非ないしその態様などが論議の対象とされ、また、同訴外人の父親が右処分の有無ないしその態様などを決すべき教育委員会の委員長であるところから、諫早市教育界やP・T・Aなどのなかには、原告の右処分問題等に対する取組み方等についても、推測をまじえた取沙汰をするものがあつたが、右面談の席上、前田は、原告に対し、右昭の処分問題等を教育委員会で審議する際に、父親である原告が地方教育行政組織法第一三条第五項の規定によつてこれに参与できず、該審議の席を退席しなければならないが、五名という少人数で構成、運営されている教育委員会の姿としては甚だ不正常なことであり、かようなことがしばしば惹起される事態は避けなければならないと思つていること、諫早市議会のなかには、これと同意見の議員も数名おり、激昴している者すらいて、この問題を廻る同市議会の情勢は、原告にとつて生やさしいものではないこと、従つてまた、同訴外人としては、右数名の議員とともに、同市議会で右処分問題等に関する原告の見解を厳しく追及せざるを得ないものと判断していること、反面、原告の今まで教育界に尽してきた功績を傷つけないためには、この際道義的責任をとつて、潔く教育委員長の職を辞するのが最もよい方策と思われることなど、右昭の処分問題等に関する同訴外人の意見をも交えて、種々話し合つた。そして、右訴外人と原告は、かような話し合いを了えた後、世間話等を交わしながら酒食を共にし、約一時間程で右旅館を出た。なお、右旅館における酒食の飲食代金等は、全額原告において支払つた。

叙上の事実が認められる。しかしながら、叙上認定した以外に、前田が原告主張のごとき強迫と目し得べき言辞を弄したとか、右面談の際の同訴外人の言動が原告主張のごとき荒々しいものであつたかについては、右甲第四二号証及び原告本人尋問の結果中には、これを示唆するごとき部分もあるが、該認定に供した前掲各証拠と対比して、いまだ当裁判所の心証を惹くに足らない。

尤も、叙上認定の事実関係によつてみても、原告は、長男である昭の暴言問題やそれに対する原告自身の教育委員長としての意見ないし処理方針などについて、前田が暗示したごとき諫早市議会における質問ないし追求を苦にしていたであろうことは、容易に推察できるところであり、もしそうであるならば、それが原告において辞職申出をするに至つた理由の一つとなつたであろうことも、また、これを推認するに難くないが、しかし、元来、地方教育行政を司る教育委員会の委員長としては、教育行政に関する事柄について市議会の質問を受け、場合によつてはその責任追求にまで及ばれることのあるのは、むしろ当然というべきであつて、よしや、それがみずからの親族(長男)の言動に基因する問題に関連した場合であつても、何ら異なるところはない。そして、これに加えて、原告は、前田との前記面談に際しては、自ら同訴外人を前記旅館に誘い、かつ、話合い終了後は雑談を交えながら酒食を共にしているところ、原告自身としても、教育委員長というその地位にふさわして識見を有する者であると推認できることなどを照らし合わせて考えると、前田が諫早市議会における質問ないし追求を暗示したことをもつて、直ちに、強迫にあたるということのできないのは、みやすい道理である。

そうすると、原告のなした辞職申出の意思表示に取消原因たる瑕疵があるということはできない(なお、単なる詐欺、強迫に基づく意思決定の瑕疵をもつてしては、いうをまたないところである。)。

三1  次に、原告は、諫早市長が前記書面で同意の意思表示をする以前において、辞職の申出を撤回した旨主張しているところ、原告が、昭和四五年一二月二三日、同月三一日及び昭和四六年一月一七日に、諫早市長に対し、それぞれ原告主張の場所及び方法で、辞職申出(辞職願)を撤回する旨の意思表示をしたことは、当事者間に争いがない。

尤も、原告は、これより先の昭和四五年一二月二〇日にも、諫早市長に対し、辞職申出撤回の意思表示をした旨主張し、前掲甲第四二号証及び原告本人尋問の結果中には、右主張に照応する部分も存するけれども、該部分は、成立に争いのない甲第二及び第三号証並びに被告代表者尋問の結果と対比して、たやすく信用できず、他に、右主張を首肯せしめるに足る証拠も存在しない。

2  これに対し、被告は、教育委員の辞職の場合にあつては、その辞職申出を撤回することは許されない旨を主張している。

しかしながら、元来、教育委員会の委員は、その任期中においても、当該地方公共団体の長及び教育委員会の同意を得るかぎり、任意に退職することができるものとされているところ(地方教育行政組織法第一〇条)、かように長及び教育委員会の同意が教育委員辞職の要件とされているのは、教育委員が、地方公共団体における教育行政の重要な執行機関である教育委員会を構成する者であるところから、公の職務を担当すべき義務を一方的に破棄して、教育行政に空白の生ずることを避けるため、教育委員会と任命権者である長とに、その地域における教育行政上の影響に対して配慮する権限と機会を与え、その地位の辞職を教育委員会及び長の裁量にかからしめようとしたものにほかならない。従つて、教育委員の辞職に際して要求される長及び教育委員会の同意は、当該辞職の効力発生要件と解すべきこと、いうをまたないところである。しかるに、他方、教育委員は、その任期を四年と定められて(地方教育行政組織法第四条)、任期の経過後においては、地域住民の意思の推移に即応して逐次改任されることがある反面、任期中においては、一定の事由がある場合を除いては失職または罷免されないことにより(同法第七及び第九条)、委員の身分を保障されているのである。

かようにして、教育委員は、長及び教育委員会の同意を得るかぎり、その辞職が自由である反面、教育委員の任期は、教育行政の安定と教育委員の利益のために保障されるものであることにかんがみれば、一旦辞職の申出をした教育委員が、長もしくは教育委員会の同意を得られないために辞職の効果がいまだ発生しない時期において、該辞職の申出を撤回することは、それが、すでに当該辞職申出を基礎として新たに形成された公的秩序を恣意によつて動かすものであるなど、信義に反すると認められる場合を除いては、当然許されるものと解するのが相当である。

四  しかるところ、被告は、原告が辞職申出の撤回をするに先立ち、諫早市長及び教育委員会において地方教育行政組織法第一〇条の同意を与えているので、右辞職申出はすでにその効果が生じ、これを撤回し得ない事態に立ちいたつていた旨主張し、原告は、これを争つているので、以下、この点について判断を加える。

(一)  まず、教育委員会の同意の有無について検討する。

その方式及び趣旨により公務員が職務上作成したものと認められるから真正な公文書と推定すべき乙第一号証、並びに証人金森遠及び同山崎善陽の各証言を総合すれば、原告は、昭和四五年一二月一五日に開かれた諫早市臨時教育委員会の審議を了えた直後に、「いろいろ考えた結果、この際委員を辞任したい。」旨発言して、辞職の申出をなしたところ、原告を除くその余の委員らの反応としては、該辞職申出が原告の長男宮地昭教諭の暴言問題等に関してなされたのであれば、辞職までしなくても良いのではないか、という意見が大勢を占めたが、原告の辞意はあくまで固いと見受けられた反面、教育者たる原告の苦悩ないし立場も十分理解できるところであつたため、結局、原告を除くその余の委員の審議の結果、原告の右辞職申出に同意するに至つたこと、並びに、右辞職申出とそれに対する同意は、同日の議事録にその経過が記載されていることを認めることができる。前掲甲第四二号証中右認定に反する部分は、右認定に供した各証拠と対比して、たやすく措信しえず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

そうすると、教育委員会は、原告が昭和四五年一二月一五日口頭をもつてなした辞職申出に対し、即日これに同意をなしたものということができる。

(二)  つぎに、諫早市長の同意の有無について検討するに、前掲甲第四二号証、原告本人及び被告代表者各尋問の結果によると、かえつて、諫早市長は、昭和四六年二月四日に至つてなした同意の意思表示(これが書面をもつてなされたことは、当事者間に争いがない。)をする以前においては、原告に対し、書面をもつて、その辞職申出に同意する旨の通知(意思表示)をなしたことは、存しないことが明認看取され、反対の証拠はみあたらない。

尤も、被告は、教育委員の辞職申出に対してなさるべき同意は必ずしも書面によるを必要としないものであるとして、数次にわたり書面以外の方法で右同意をなした旨るる主張しているところ、成立に争いのない乙第二号証、証人金森遠及び同山崎善陽の各証言並びに被告代表者本人尋問の結果(但し、後記措置しない部分を除く。)を総合すれば、次の各事実を認めることができる。

(い)  原告は、昭和四五年一二月一五日、前記(一)項認定のとおり、教育委員会で辞意を表明して、これに対する同意を得たあと、教育長訴外金森遠を同伴して市長室へ赴き、市長に対して、原告が教育委員会において辞意を申し出て、それにつき教育委員会の同意を得たことを伝えた。これに対し、市長は、突然の申出に驚きながらも、長男宮地昭教諭の暴言問題等に関連しての辞意表明であればその必要はないのではないか、といつて一応慰留したが、原告は、辞職の理由は一身上の都合と健康上の理由によるものであるとして、辞意を飜えそうとしなかつたので、結局、市長において書面による辞職願の提出を求め、原告の方では右提出すべき辞職願の書式について質問した程度で、その際の話合いを了えた。

(ろ)  原告は、同月一七日午前中、再び市長室を訪れて、作成日欄を空白のままにした辞職願の書面を市長に提出した(右辞職願の提出自体は、当事者間に争いがない。)。右辞職願の作成日欄が空白のままにされていたのは、市長に都合のよい日付を記入してもらいたいとの、原告の意向によるものであつた。市長は、その際も、原告に対し、一応慰留を試みたが、依然原告の辞任の意思は揺がなかつたため、結局、原告から右辞職願を受理した。

(は)  市長は、翌一八日、秘書課長を原告の勤務先である諫早農業高校飯盛分校へ派遣し、原告の自筆で、右辞職願の作成日欄に、同辞職願が現実に提出された日である「一二月一七日」なる文字を記入させて、同辞職願を補完させた。

(に)  さらに、市長は、金森教育長と協議のうえ、原告の提出した右辞職願を原告を除くその余の教育委員全員の供覧に付し、原告より辞職願が提出されたことを周知させた。

(ほ)  なお、市長は、右同日、金森教育長と原告の辞任に伴なう教育委員の後任人事について協議したが、原告の教育委員としての任期は昭和四六年九月末までであるところ、その当時の教育行政の状況からして、かような短期間であれば、教育委員が一名欠員の状態でも格別支障は生じない見通しであつたため、後任教育委員の人事を直ちに議会に提案するまでの必要はない、という結論に到達した。そこで、市長は、即時、諫早市議会議長に面接を求め、同議長に対して、原告から辞職願が提出されたこと及び当分の間右理由で後任人事についての提案はしない方針であることを報告した。

以上の各事実を認めることができる。被告代表者本人尋問の結果のうち、右認定に反する部分は、たやすく措信しえず、、他に右認定を覆えすに足る証拠はない。

そこで、叙上認定の事実関係を基礎として考える。なるほど、地方教育行政組織法には、教育委員の辞職申出に対する当該地方公共団体の長及び教育委員の同意につき、その方式をことさら定めた規定は存しないから、右同意をするに際しては、必ずしも書面によるを要しないものというほかはない。しかしながら、右同意も、性質上行政処分たる行政庁の行為と解するのが相当であるから、単に当該行政機関の内部的な意思決定がなされたのみで、右同意があつたものと目し得ないことは、明らかなところであつて、それが何らかの方法で外部に表示されるか、少なくとも、外部的に認識され得る表象を具える必要があることは、いうをまたない(この場合、常勤及び非常勤の国家公務員が書面でなした辞職申出を承認するにつき、当該公務員にその旨の通知書を交付すべき旨を定めた人事院規則八―一二(職員の任免)第七五条第一〇号の規定が想起されるべきである。なお、昭和三一年九月一〇日文初地第四一一号「地方教育行政組織及び運営に関する法律等の全面施行について。」なる初等中等教育局長通達(別添の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律の解釈及び運用に関する質疑応答集」を含む。)によれば、地方教育行政の実務運営上においても、地方公共団体の長は、地方教育行政組織法第一〇条の同意を与えるにつき、当該辞職の申出をした委員に対し、同意を与える旨の通知を行うのが適当である、とされているもののようである。)。そして、かような観点に立脚して考察すると、前叙認定した諸事実のうち、諫早市長が、前記一八日、原告の提出した辞職願を原告以外の教育委員全員の供覧に付し、かつ、即日、金森教育長と原告辞任後の後任人事の取扱いについて協議したうえ、諫早市議会議長に右辞職願の提出及び右協議の結果をそれぞれ報告したことは、いずれも、同意を与えるべき原告自身に対して行われたものでないから、それ自体同意の効果を生ずるものでないことはもちろん、およそ、教育委員から辞職申出があつた場合、それに伴なう教育行政の渋滞ないし空白を避けるための配慮を廻らし、かつ、同意を与えるかどうかを決定すべきは、地方公共団体の長の当然の職責に属するから、諫早市長が右一八日に右認定のような協議及び報告をしたからといつて、それ以前に原告の辞職申出に対する同意が行われたものと推認するのは、いささか早計にすぎる。しかるに、原告が前記一五日に辞職を申出た際には、諫早市長においてこれに同意を与えるまでに至つていないことは、前叙認定したところからすでに明らかであるから、結局、問題となるのは、諫早市長が前記一七日原告から辞職願を受理したことと、翌一八日原告にその作成日欄を補完させたことをもつて、右同意を与えたとみることができるかどうかということに帰着する。しかしながら、元来、辞職願を受理することは、教育委員会の同意と相まつて教育委員の辞職という形成的効力を生じさせる市長の同意と異なり、いわゆる準法律行為的行政行為に属するものと解するのが相当であるから、辞職願を受理したことをもつて、直ちに、辞職申出に対する同意がなされたものといえないことは、明らかである(なお、被告代表者尋問の結果中には、辞職願を受理するに際し、「同意しましよう。」と明言した旨供述する部分があるが、いまだ、当裁判所の心証を惹くに足らない。)。また、市長が原告に対し、空白のままとなつていた辞職願の作成日欄の補完を求めたのは、やはり、該辞職願の提出された日(従つて、これが受理された日)を明らかにしようとの趣旨であつたものと解するのが相当であり、右補完させたことをもつて、原告に対する辞職の同意と目するのは、何としても飛躍にすぎるというべきである。

叙上かれこれ考察してきたところによれば、諫早市長が原告の辞職申出撤回前に同意を与えたかについては、いまだこれを確かめることができなく、ひつきよう、被告は、この点につき必要な立証をつくさないことに帰するものといわざるを得ない。

五  さらに、被告は、原告のなした辞職申出の撤回は信義則に反し許されない旨主張しているので、以下、この点について判断を加える。

元来、教育委員がその任期終了前に辞職を申出た場合において、地方教育行政組織法第一〇条に定める地方公共団体の長または教育委員会の同意がなされて辞職の効果が発生する以前であれば、原則として自由にこれを撤回できることは、さきに説示したとおりであるけれども、ただ、長または教育委員会の同意がなされる以前においても、もし無制限に撤回の自由が認められるとすれば、場合により、信義に反する辞職願の撤回によつて、辞職願の提出を前提として進められた爾後の手続がすべて徒労に帰し、個人の恣意により行政秩序が犠牲に供される結果となることがあるので、長または教育委員会の同意以前であつても、辞職願を撤回することが信義に反すると認められるような特段の事情がある場合には、その撤回は許されないものと解すべきである。しかして、長または教育委員会のいずれか一方のみがすでに同意を与えている場合にあつては、かように一方からの同意がすでになされているということは、信義則に関する事情の一つとしてしん酌するのが相当である。

そこで、叙上の見解に立脚して、撤回が許されないような特段の事情が存するかどうかについて検討するに、教育委員会が、原告において辞職を申出た前記一五日に、すでに右辞職申出に対する同意を与えていたこと、市長が、原告辞任後の後任人事について教育長と協議し、かつ、その協議の結果を市議会議長に報告していること、並びに、市長が、原告の提出した辞職願を、原告を除くその余の教育委員全員の供覧に付したことは、いずれも、先きに認定したとおりであり、また、成立に争いのない乙第五号証及び証人前田正則の証言によれば、折柄開会中の諫早市議会においては、前田を始め数名の議員から、原告に対し、教育行政に関して一般質問がなされる予定となつていたが、原告が辞職願を提出したことにより、急拠これが中止され、同定例市議会は、結局、原告が辞職願を撤回する以前に、右一般質問をしないまま、閉会に至つたことが認められ、この認定に反する証拠は存在しない。

しかしながら、他面、後記各証拠によれば、次のような事実を認めることができる。すなわち、

1  前掲甲第四二号証、証人金森遠の証言により真正に成立したものと認められる乙第七号証の二、同第八号証の四、同第一〇号証によれば、昭和四五年一二月二五日に開かれた諫早市教育委員会の定例(一二月)委員会は、その招集及び議事日程の通知に際し、その招集者(通知者)として原告の名義を掲げていたこと、並びに、当日は、原告を含めた五名の教育委員全員が出席して開催されたが、その際も、原告は、教育委員長として開会を宣言し、議事の進行を司つたが、原告を除くその余の各委員としても、それに関して格別疑義をさしはさむようなことはしなかつたことが、認められ、この認定に反する証拠はない。

2  成立に争いのない甲第七号証、証人徳永直喜の証言(後記措置しない部分を除く)、被告代表者尋問の結果を総合すると、原告は、昭和四六年一月一五日に開かれた諫早市主催の成人式につき、同市秘書課から教育委員としての出席案内を受け、同日これに出席したことが認められ、証人徳永直喜の証言のうち右認定に反する部分は、措信しえない。

3  前掲甲第四二号証によれば、同月一七日、諫早市長らが発起人となつて日本社会党書記長石橋政嗣の書記長就任祝賀会が開かれたが、原告は、それに教育委員長として出席を求められ、かつ、これに出席したことが認められ、この認定に反する証拠はない。

4  成立に争いのない甲第八号証の一、二によれば、原告は、同月二九日に諫早市商工会議所四階大ホールで行われた同市教育委員会主催の家庭教育学級大会に際し、教育委員として出席を求められたことが認められ、この認定に反する証拠はない。

5  成立に争いのない甲第五号証、証人金森遠の証言、同証言により真正に成立したものと認められる乙第一一号証を総合すれば、同月三〇日に開かれた諫早市教育委員会の定例(一月)委員会は、その招集通知に際し、招集者として原告名義を掲げていたが、教育委員訴外市川一郎、同稲永俊滋及び山崎善陽の三名は、前記一二月二五日に開かれた定例委員会の場合と同様、再び原告が出席してくることが予想された反面、既に一旦辞職の申出をし、かつ、少なくとも教育委員会としては該申出に同意を与えているのに、原告が依然教育委員長として出席することに疑義を感じたところから、右定例(一月)委員会を欠席したため、同定例委員会は、結局定足数を満たすことができず、流会となつたことが認められ、この認定に反する証拠はない。

6  成立に争いのない甲第四号証、同第九号証の一、二によれば、原告は、昭和四六年二月頃、諫早市より、同年一月分の報酬金一万三、〇〇〇円(原告の報酬月額が同金額であることは、当事者間に争いがない。)及び同年二月一日から書面による同意の意思表示がなされた同月四日までの報酬金二、一六六円の支払を受けたことが認められ、この認定に反する証拠はない。

7  成立に争いのない甲第一〇号証の一、二によれば、諫早市教育委員会は、同年二月二二日付文書で、原告に対し、教育委員として同年三月八日諫早市公民館大講堂で行われる右委員会主催の第八回諫早市婦人大会に出席を求める旨の案内状を送付したことが認められ、この認定に反する証拠はない。

8  証人金森遠の証言によれば、諫早市教育委員会においては、その事務局職員に対して原告が辞職した旨をことさら公表したことはなく、また、原告の辞職を前提とした送別会を行つたようなことも格別存しないことが認められ、この認定に反する証拠はない。

そこで、叙上認定の事実関係を前提として考察するに、諫早市長が原告辞職後の後任人事について教育長と協議し、その結果を諫早市議会議長に報告したことは、原告の辞職申出という事態に即応するためになされた行政上の措置であることは否めないが、右協議の結果は、原告の残任期が短期間であることもあつて、後任者を任命することはしない方針に落着いたというのであるから、原告が辞職申出を撤回した一二月二三日までの間に、原告の辞職申出に基づく新たな行政秩序が形成されたということはできない。また、市長が原告の辞職願を原告を除くその余の教育委員に供覧したからといつて、直ちに、その辞職願(辞職申出)の撤回が信義に反するといえないことは、明らかである。尤も、原告が辞職申出をした結果、当時諫早市議会で予定されていた原告に対する一般質問が中止され、原告が辞職申出を撤回する前に同市議会が閉会された関係上、右辞職申出撤回後再び右一般質問を行う機会は失われることになつたことは、前叙認定したとおりである。しかし、かように一旦辞職申出をしながら、後日これを撤回し、少なくとも外形的にみるかぎり、諫早市議会における一般質問を免れるという結果を招来したことについては、よしや、教育委員(長)としての識見を問題にされる余地がまつたくないとはいいきれず、それがため地域住民の意思の推移を招いて、これが再任に当つて考慮さるべき事情の一つとなることはあり得ないことではないとしても、右一般質問を免れたという結果をもつて、直ちに、教育委員会、諫早市及び同市議会における行政秩序形成の問題とみることは、やはり飛躍にすぎるものというほかはない。また、これを原告の主観的な側面からとらえてみても、原告が辞職申出を撤回したのは、その辞職申出後僅か六日後のことであるうえ、元来原告が辞職申出をするに至つた理由は、前叙二認定のとおりであつて、ひつきようするに、教育委員(長)としての公的立場と宮地昭の父親としての私的立場の相克になやみ、かつ、市議会で公けに追求されることを嫌つたものと推認するのが相当であるところ、これに加えて、前叙五1ないし8の各認定事実からすれば、少なくとも諫早市及び教育委員会の事務当局においては、辞職申出後も原告を教育委員(長)として取扱つていたものといわざるを得ないが、かような取扱いが生じたのは、諫早市及び教育委員会の事務当局に原告の辞職が伝えられなかつたためと断ずるほかないことをも考慮に入えると、前叙四(一)認定のごとく教育委員会のみはすでに同意を与えていたことを斟酌してもなお、原告の辞職申出の撤回が信義に反し許されないものとまで解することはできない。

六  そうすると、原告のなした辞職申出は、諫早市長がこれに同意を与えるに先立つて有効に撤回されたものといわざるを得ない。しかるに、諫早市長は、右撤回が有効になされたことを看過して、昭和四六年二月四日、原告の辞職申出に同意する処分を行つたものであるから、諫早市長の右同意は、元来違法として取消を免れない筋合いのものである(なお、原告は、右同意が無効の行政処分である旨主張しているが、瑕疵が重大かつ明白といえないことは、前叙説示したところによつても、すでに明らかである。)。そして、前掲甲第四二号証、証人金森遠の証言並びに原告本人及び被告代表者各尋問の結果によると、原告は、諫早市長が右同意をなした結果、教育委員(長)としての地位を失つたかのごとき外観を生ぜしめられたばかりでなく、その残任期(昭和四六年九月三〇日まで。)が経過したことにより、もはや右地位に戻る機会をも失わしめられるに至つたことが明らかである。従つて、原告は、諫早市長に故意もしくは過失が存するかぎり、被告に対して、諫早市長の右違法な公権力の行使(同意)の結果蒙つた損害につき、賠償を求め得るものというべきである。

進んで、諫早市長がすでに撤回された原告の辞職申出に同意を与えるにつき、故意もしくは過失があつたかどうかについて判断する。

七  被告代表者尋問の結果によれば、市長は、昭和四五年一二月一七日、原告から辞職願を受理した段階で、教育委員会の同意と相まつて、原告の辞職の効力が生じているものと即断して、原告に対して同意をした旨を通知するなどの処置をとろうとせず、原告から辞職願撤回の申出があつた後である昭和四六年二月四日に至つて、ようやく、免職辞令と同様の形式をもつて、原告の辞職申出に同意する旨の通知をなしたことが認められ、前掲甲第四二号証のうち右認定に反する部分は採用しえず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

右事実によれば、市長が原告の辞職願の撤回が有効であることを知つていたとは到底解せられないから、違法な同意処分を行うに際し、市長に故意があつたものとまで認め得ないことは、明らかである。

しかしながら、元来、行政権の最終執行責任者たる市長は、その職務上、一般人よりも関連法規、判例、通達などを熟知、精通していることを要求されているものというべきところ、本件は、前説示のように、辞職の効力の発生時期、辞職願撤回の可否などにつき、解釈上疑義が生じやすい場合ではあるが、辞職申出撤回に関連して従前幾度びか示された最高裁判例や、地方教育行政組織法第一〇条に関しての通達などを検討するときは、辞職の撤回が有効と考える余地が生じてくるにもかかわらず、格別所管官庁や法律専門家などに問い合わせて調査するなどをすることなく、かつ、原告の再三にわたる撤回の申出を無視して、前記二月四日に至つて、原告に対し、その辞職申出に同意する旨の辞令(書面)を交付して、事実上原告の教育委員(長)としての地位を失わしめると同一の結果を招来したものであるから、市長には、過失があつたと認めるのが相当である。

八  原告の蒙つた損害について考察する。

1  原告の教育委員としての任期が昭和四六年九月末日までであつたこと及び原告が同年二月当時教育委員(長)として月額金一万三、〇〇〇円の報酬を受けていたことは、当事者間に争いがない。

しかるに、前掲甲第四号証、同第九号証の一、二によれば、原告は、市長の右違法な処分により、二月四日までの報酬として、二月分金二、一六六円の支給を受けた以後は、二月分残金一万〇、八三四円及び三月分ないし九月分の合計金九万一、〇〇〇円の報酬を受けていないことが認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。従つて、原告は、市長の違法な処分がなければ、同年九月末までは名実ともに教育委員長として取扱われ、その期間、右報酬を受け取ることができたにもかかわらず、それを支給されていないのであるから、右合計金一〇万一、八三四円は、市長の右処分に基づく損害と認めることができる。

2  次に、成立に争いのない甲第二号証、前掲甲第四二号証、証人金森遠の証言及び被告代表者尋問の結果によれば、原告は、昭和一一年四月、大阪府堺市で教員となつてから、その後長崎県に転任して来て、県内教員、校長、教育長、教育委員(長)(但し、昭和三九年一〇月諫早市教育委員に任命され、同四〇年一〇月に教育委員長に就任したことは、当事者間に争いがない。)として、長崎県の教育界にその一身を捧げて来た者であるところ、市長の右処分により、任期途中で、教育委員長たる地位を失つたと同様の結果に陥らしめられたこと、また、原告は、昭和四五年一二月二三日、同月三一日及び昭和四六年一月二七日等の再三にわたり、市長に対し、辞職申出の撤回を申入れて、先に提出した辞職願の返還を求めたにもかかわらず、同年二月四日に至り、市長より、辞職申出に同意する処分を受けたものであることが認められ、右認定を覆えすに足る証拠はない。右事実によれば、原告が、その意に反して、約六年四ケ月在任していた教育委員(長)の地位を、任期の途中で辞職したものとして取扱われ、これを甘受せざるを得なくなつたこと自体、永年教育に従事して来た原告にとつて、耐え難きことであつたといえるから、それに伴つて精神的損害も生じていると推認することができる。そして、原告の教育者及び教育委員(長)としてのかような経歴、諫早市における名望、辞任に至る経緯(なお、すでにるる認定ないし説示してきたごとく、原告が教育委員長として取り扱われなくなつた発端は、原告が教育委員会及び市長に自ら辞職を申出たことに起因するものであるところ、右辞職申出については、これが前田の強迫行為によるものとまでは認め難いが、このことは、原告の精神的損害を算定するにあたり、損害額減額の要因として斟酌さるべきである。)、その他本件に顕われた諸般の事情を考慮すると、右精神的損害に対しては、金二〇万円をもつて慰藉するのが相当である。

3  ところで、原告は、名誉回復処分として、別紙謝罪文を新聞紙上に掲載することを請求しているので検討する。

いわゆる名誉回復処分としての謝罪広告の請求については、その処分が必要で効果的であり、かつ判決によつて強制することが適当である場合にこれを認めるのが相当であつて、名誉毀損行為の反社会性の程度が極めて軽微な場合や、名誉毀損行為による被害が小規模にとどまつた場合には、かような名誉回復処分を否定することができるものと解すべきである。

これを本件の場合について考察するに、叙上認定の事実によれば、市長の違法処分は、帰するところ原告の辞職に同意するという態様のもので、懲戒的な性格を有しているものではないし、原告も、任期途中で事実上教育委員(長)の地位を退いたと同様の結果となつているが、それは、原告の辞職願という行為に対応する形で同意があつたからであつて、原告の主観的な名誉感情を問題とするのであれば格別、社会的評価としての名誉(客観的名誉)侵害としてみるかぎり、仮りにそれがあるとしても軽微、小規模のものといわざるを得ないばかりか、その同意に関しては、市長に過失があつたことは否めないにしても、ひつきよう、辞職の効力の発生時期に関する解釈上の見解の相違に由来するものということができることなどの諸事情をかれこれ勘案すれば、原告の請求する名誉回復処分は、その妥当性を欠くものというべく、これが排斥を免れない。

4  弁論の全趣旨によれば、原告が、市長の違法な処分に基づく損害を請求するために、やむを得ず、原告訴訟代理人らに委任して、本件訴を提起し、かつこれを追行してきたこと、原告は、右訴訟委任に際し、原告訴訟代発人らに着手金として各金五万円、訴訟終了後に各金二〇万円合計金五〇万円を支払うことを約束したことが認められる。

一般に、不法行為の被害者が、自己の権利擁護のために訴を提起することを余儀なくされ、訴訟追行を弁護士に委任した場合には、その弁護士費用は、事案の難易、請求額、認容された額その他諸般の事情を斟酌して相当と認められる額の範囲内のものに限り、右不法行為と相当因果関係に立つ損害というべきである。

これを本件について考えるに(本件の場合、ことに、本件訴訟が当初市長の免職処分無効確認請求事件として提起されたことを斟酌すべきである。)、本件不法行為と相当因果関係に立つ損害としては、金一〇万円をもつて相当と認める。

九  結論

よつて、原告の本訴請求は、金四〇万一、八三四円及びこれに対する本件訴えの変更申立書送達の日の翌日である昭和四六年一〇月二三日より支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、その範囲で認容し、その余の請求は理由がないので、これを棄却することとし、訴訟費用の負担については、民事訴訟法第九二条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 篠原曜彦 最上侃二 古川博)

(別紙)〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例